2018年7月、とある青年が北方四島の一つである色丹島に渡りました。
彼は30代になったばかり。戦争のことは遠い史実としてなんとなく知るのみで、ただ「僕は北方領土問題の難しい事は正直解らなかったし、楽器を吹きに来ただけのつもりだった」。
そんな今どきの普通の若者が、愛機である古いContaxのカメラを通してその地で見た風景とは。歴史の波に飲まれ、いまの日本が辿らなかったもうひとつの時間が、そこには流れていました。
今回、わたし夏色インコが尊敬するフィルム写真家ぺこさんが、ご本人の実体験を元に貴重なレポートをはちみつバードのために書き下ろしてくれました。
フラットな感情で撮影された写真が伝えるものは多く、それを見る者がそこから、それぞれに何をどう受け止めるのか。そんなことがもしかしたら、未来の方向をゆるやかに決めてゆくのかもしれません。
7月の下旬、僕はビザなし交流訪問の訪問演奏担当という事で北方領土である色丹島へ訪れた。会社の社長が元島民の二世であるという縁があり、今回の訪問の文化交流に僕を含む演奏家5人(社長含む)に白羽の矢が立ったという訳だ。
元々旅が大好きな自分。社長からのオファーには二つ返事でOKを出した。
この時は「何かいい写真撮れるかなー」とか、「ロシア人の前で何演奏したらいいんだ…」位の事しか考えていなかったように思う。
そう、勉強が大嫌いだった自分はあろうことか、北方領土の事など全くと言ってよいほど何も知らなかったのだ。この旅が終わる頃に訪れる心境の変化は、この時は考えもしなかった。
出発の日、根室の空は厚い雲に覆われ北海道にしては蒸した空気の中、僕たち訪問団を乗せた船は根室港を発ち、入域手続きの為にまず国後島を目指した。フェリーの中では他の参加者の方たちとの交流があった。
中には元島民の方も参加しており、そんな方たちに貴重な話を伺う時間もあった。
「私は元島民。今までは故郷の返還の為にできる限り戦ってきた。けど、訪問はこれが最後。これからは貴方達の番よ。」
貴方達の番。
僕はこの言葉の意味を滞在中考え続けた。
国後で入域手続きを終え色丹島に着くと、まず目に飛び込んできたのはそそり立つ壮大な島の岸壁と、その麓の岸辺に何十年も放置されたであろう船や戦車。予備知識程度には予め知っていたことではあるが、いざ生でその光景を目の当たりにすると妙な生々しさが自分を包んだ。戦争を知らない僕達にとってはいまいち現実感が沸かないもの。しかし確かに目の前にそれらがあった。
それに加え、港で僕らを監視する巡視船などの物々しさが一抹の緊張感を生んでいた。
港から出る。
舗装されていない主要道路、そん所そこらに練り歩く牛や野良犬、手付かずの自然。
当然といえば当然だが、島には一切日本らしい箇所は見当たらなかった。
初日、島内では3時間ほどホームステイの時間があった。
僕らの班の受け入れ先は、ウクライナから戦火を逃れ色丹島に引っ越してきたという婚約者カップルとそのご友人。
おいしい料理、おいしいウォッカ、陽気だが物悲しさも垣間見えるような歌。
彼らは出来得る限りの温かいおもてなしを僕らにしてくれた。
「私達が暮らすこの島とあなた方の国の間には今でも難しい問題が残されています。しかし、ここにきてくれたからには私達は既に良き友人です。ここへ来てくれてありがとう。」
僕には想像もし難いほど、過酷な戦火を逃れこの静かな島にやってきた彼らだからこその言葉。
こんなに尊く意味のあるおもてなしが、今まであっただろうか。
この時語ってくれた彼らのまなざしが、今でも目に焼きついている。
翌日、僕ら5人のアンサンブルの演奏本番。
島に2つあるうちの1つの小学校での演奏だ。
コンサートは大成功。演奏が終わるなり子供達が僕らメンバーの元へ集まり、たくさんの花束やお菓子などの贈り物をくれた。演奏後の小学校の校長先生からの僕らアンサンブルへの感謝の言葉も、本当に胸が詰まる思いだった。
その時ふと、思った。この子供達はこの島で生まれ育ったんだな、と。
元島民の方にとってももちろんそうだが、彼らにとっても間違いなく色丹島は故郷なのだ。
元島民の方の故郷への想いと、今現在の島での営み。僕は泣きそうなような、複雑な心持ちで色丹島を後にした。
正直なところ訪問が終わった今でもこの問題をどうすればいいか、なんて僕には全然わからない。
しかし今回この旅で、この事について考えるきっかけになった。行かなきゃわからない事だらけだった。
色丹島の人々は僕らが日本で暮らしているのと同じように、ただ日々を営んでいた。
そりゃそうだ。こっちがいくら騒ごうが、彼らにとっては島が故郷なんだから。
text & photo by ぺこ(special guest)
edited by 夏色インコ
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